学院長の成竹です。私は、九州の農家出身の父母に育てられました。父母は同じ学年で、同じ中学を卒業しました。母は中卒後、集団就職、大阪、名古屋、東京、神奈川で紡績工場やタイヤ会社で働きました。父は高卒後、自衛官として佐世保から北海道へ、そして神奈川県警へ応募し警官となりました。そして父母は横浜で再会したようです。
結婚後、兄が産まれ、母は家で洋装の内職を始めました。父は駐在所や神奈川県警少年課などで働きました。
父は警部試験合格後、43歳で警察大学校での訓練中に殉職しました。自分が中2の時でした。
まだ幼子の妹含め3人の子どもを抱えた母は、途方に暮れながらも還暦過ぎるまでミシンを踏み続け、子ども全員を大学卒業まで進学させました。
母の教育方針は「お母さんは貧しくて高校にいけなかった。お父さんも大学に行きたかったが経済的に無理だった。だからお前たちにはしっかり勉強して欲しい」という強い信念でした。これは全く揺るがなかったと思います。
家にはミシンの内職で得たお金で買った、比較的高価な百科事典や文学全集が並び、保育園に上がる前の幼い頃から、まるで遊ぶように、私はそういう書籍をなんどもむさぼり読んだものです~母の踏むミシンの音を聞きながら。おかげで国語は、中学の時には人口300万人を超える横浜市でトップ、「何も勉強しなくても国語はいつもトップ」、という国語力が、その頃についたと思います。
自分の校外学習歴を並べてみると~オルガン教室(保育園時代:3ヶ月で挫折)、そろばん教室(小学校低学年:1年位で挫折)、書道教室(小学校低学年:2年間)、中学受験塾(小6の半年間弱で3箇所を点々として挫折)…高卒後1浪目に河合塾へ入り東大へ。御世辞にもよく頑張ったとは言いがたい挫折の数々です(苦笑)。
しかし、ここに見て取れるのは、座学に限らず、様々な能力を身につけて欲しい、という母の強い信念です。
中学受験失敗で苦い思いをした私は、その後は中高通じ、二度と塾に行きたくない(一斉指導が非常に苦手)と思いつつ、家庭で、ご飯をたべるように、お風呂にはいるように自然に自学する習慣が身につきました。
そんな「塾嫌い」自分の経営する塾ですから、なによりまず自然で強くたくましい、「自学力」を身につけて欲しい、と考えています。
勉強が楽しくて仕方ない、ということはありません。勉強の上達は、手間暇かかり、伸び悩み、劣等感にさいなまれ…と、心地良さより苦痛が勝る、非常に大変な仕事と思います。しかし、だからこそ、そんな勉学を自学出来る力を身につけて欲しい、と切に考えています。
実際、大学卒業後、働くことになったどの職場・職種でも、常に問われてきたのは、やはりこの「自学力」でした。
「自学力」がついたら、横濱学院は卒業です。
それまで、大変ですが、お子さんである生徒さんには頑張って通って、個別指導中心に、一斉指導やオンライン学習など、適正に合わせた指導を素直に受けて頂き、また家庭でも「家庭学習の習慣付け」をして頂きたいと考えます。
「お母さん・お父さんこそ先生」であり、また、生涯学習の中でいつも新たな気付きで人生を磨き続ける「生徒」でもあると思います。それは私たち、教職員も全く一緒なのです。